好奇心で生きてる

短編や書きたいことをつらつらと。

はじめに

短編や、日々感じたことを書きます。

 

主に魔女狩りを研究しています。

哲学、宗教、思想、錬金術古代文明などをもっと勉強したい。どんなことにも好奇心旺盛です。

ミステリー小説がとても好き。

 

カテゴリーは「短編」「詩」「記事」で分けています。

コメント等頂けましたら、至極光栄です。よろしくお願い致します。

トンカツLOVERS【短編】

私の目の前にいる友人は、はっきり言って変わっている。

クラスに一人はいる、『虐められたりはしないけれど、どこか浮いてる人』。そんな感じ。

そんな友人と『友人』の関係になったのは、忘れもしない、半年前のあの日ーーー。

 

「は……。急に呼び出したと思ったらなに、別れるってどういうこと!?」

この日、私は高校最後の定期試験が終わってウキウキしながら帰宅した。大学は指定校推薦で決まっていたし、次の連休には彼氏と旅行する計画をたてていた。交際一年記念の、初めての旅行。

ホテルや交通機関の予約も完了していて、現地ではどこを観光しようか、などとデートの度に話すのが楽しかった。

そんな彼氏から、帰宅と同時にLINEの通知。開けば、「今から会えないか」という内容で、ウキウキな私はもちろん速攻で「会いたい!」と返事をした。

制服を脱ぎ捨てて、歳上の彼に合わせた背伸びした私服に着替えた。彼と付き合いはじめて一年、私はずっと『オトナ』に憧れていた。


指定されたカフェへ行き、彼氏の後ろ姿を見つけた。歳上で、仕事をしてて、背が高くて、スラリとしてて、整った顔をした、自慢の彼氏。彼氏の横には知らない女性が座っていた。

もしかして、といやな予感、それも確実に当たるイヤな予感がしていたのに、私は二人に近づいて、「こんにちは」と声をかけた。


早い話が、私は浮気相手だった。

一年も二股をかけることができるなんて余程マメな人なんだなあと変に冷静な部分で思いつつ、口からは彼を責める言葉が飛び出した。

彼の横に座っている女性は、『オトナ』で綺麗な人だった。私が背伸びをしてなりたいと思っていたような女性だった。私に勝てるところは、なにひとつない。

私は簡単に捨てられ、予約してしまったホテルや新幹線のキャンセル料を彼から後日支払われることが決まった。あっさりとした幕引き過ぎて、そんな事務的なことでまだ彼と繋がっていることが不思議だった。


バイト代を貯めて買ったコートだった。

好きだったゲームや漫画を売ったお金で買ったスカートだった。

友人との交際費を削って買ったバッグだった。

全部が全部、俯いた私の目に映っては滲んでいった。

 

「人間なんてみんな悪いやつだよね」

雑音だけが頭に響いていた中、突然くっきりとした声が耳に届いた。知らない声だった。

びっくりして俯いていた顔をあげると、目の前には知らない人。あれ、彼と彼女はーー?

「あの二人ならちょっと前に帰ったよ。あなたに何言ってもずっと俯いてるし。男の人の方は謝りながら席をたっていたけれど」

私の心の内を読んだかのような明瞭な答えだった。そうか、そうだったのか。私はどこかトリップしていたようだ。

「隣の席だったからさ、聞きたくなくても耳に入っちゃって。で、あなた本当に全然動かないから大丈夫かなって。心配で話かけちゃった。大きなお世話だったらごめんね」

「……あ、いや、大丈夫です。すみません」

隣の席に目を向けると、トマトソースのかかったトンカツが雑穀米の上に乗せられたワンプレートがあった。ランチ中の大学生?らしい。

「いやいや、大変だったね。あの男はもちろん悪いけど、隣に座ってた女も性悪だった。こんな歳下の女の子に向かってあんなこと言わなくていいのにね。はあ、ほんと、人間って根性悪いやつばっかり」

「歳下の女の子…」

ガン、とした衝撃だった。私は、私なりに今も『オトナ』を目指した格好をしているつもりだ。それを、初めて会った人に『歳下の女の子』と断言されてしまった。

「あれ?高校生くらいかと思ったんだけど、違った?なんか、背伸びしてるな〜って感じの格好をしているから…」

その言葉を聞いて、一気に涙が溢れ出した。ああ、そうだとも、私は精一杯の背伸びをしてきたさ!全部全部、空回りの、みっともない、恥ずかしい、ああ…!

「あ、すみません、このトンカツのプレートもう一つください」

私が嗚咽を漏らしながら泣いているというのに、目の前にいる人間は店員を呼んでメニューの注文をしていた。なんだこいつは。店員さんの視線が痛いからやめてほしい。

そうしたかと思えば隣のテーブルから自分の分のプレートを持ってきて、再び私の前に座る。

手にスプーンを持っているけれど、まだ食べる気はないらしい。

店員が私の前に同じトンカツプレートを置く。こちらは湯気がたっていて、香りも強かった。ぐう、おなかが鳴る。そういえば、今日はまだお昼食べてなかったなあ。


「このトンカツ、とても美味しくない?」

もうすっかり冷めてしまっている自分のトンカツを齧りながらその人は言った。

私はアツアツでサクサクのそれを食べた。きっと、目の前の人が食べたかったのは『これ』だったろうと思いながら、私は完食した。

 

 

そのとき出会ったのが、この友人。話せば、私が推薦で行くことが決まっている大学の先輩だった。半年が経ち、大学に入学したあとずっと行動を共にしている。

今日のランチは『二人の出会いの場』であるカフェだ。

もしあのときこの人と出会っていなければ、このカフェにくることは二度となかっただろう。

こんなに美味しいトンカツをだす店は他にないので、そうならずによかった。勿体ない。

あれから、元彼とその彼女には会っていない。

どこかでばったり出くわしてもいいはずなのに。

いまごろ、あの二人はどうなっているのだろうかーー。

「今日は天気がいいね」

ぼんやりと考えていた思考に友人のくっきりとした声が入り込んでくる。私はこの瞬間がわりと好きだった。

「そうだね、テラス席空いててよかった」

二人して同じメニューを注文して、先に持ってこられたアイスティーをちまちまと吸う。

この友人とこのカフェにこられるのは、今日で最後だ。

友人は、明日、日本をたつ。

海外にいる両親のもとへ行くことが、一年前から決まっていたらしい。日本に帰ってくる予定はなく、数日前、友人は大学を辞めた。

ああ、私の大切だと思う人はみんな、どうして私のそばから離れていくのかーー。


「まあなに、地球の裏側でも、この空は繋がってるよ」

またしても、心を読まれた気がした。

二つのトンカツプレートが運ばれてくる。

トマトソースのかかった、分厚いトンカツ。

アツアツでサクサクのそれを、友人は一口齧った。

言葉の消費期限【短編】

言葉が腐るのはいつからだろう。
吐き出された瞬間に、もうその言葉は崩れ落ちて、なんの意味ももたなくなるのだろうか。

「ねえ、私のこと好き?」
「好きだよ」

そんなやりとりを、私はなんど繰り返すのだろう。
返ってくる言葉はスタンプのようにおんなじで、
画面に映る文字列はひたすらに無機質だった。
それでも言葉がほしかった。
言葉に飢えていた。
なにか一言でもいい。私に言葉をかけてほしくて、電話もメールもたくさんした。

ときに、欲しい言葉はもらえなかった。
そんなとき、私の世界はいつもぐらぐら揺れていた。酸素不足のような、栄養失調のような、そんな感覚。
過去の彼の言葉を引っ張りだしては私は自分を慰めた。
そんな自分がひどく惨めで、私は余計に泣いてしまった。

そしてまた私はくりかえし問う。
「ねえ、私のこと好き?」

「好きだよ」と、彼が答えてくれるまでの数秒だけが、私の救いだった。

カラフルノート。【詩】

赤いボールペンでハートを描く。
その下に、私の名前とあなたの名前を書いてみる。
「結構バランスいいいんじゃない?」とか思ったりして。

 

青いボールペンで家を描く。
間取りまでしっかり描いて、こっちは私の部屋、そっちはあなたの部屋、あっちはリビング。二階は…。
紙の上の小さな家は、夢のお城より輝いて見えた。

 

緑のボールペンでカフェを描く。
一度だけ、あなたと二人きりで行ったカフェ。あのあと私は何度も一人で通ったけれど、あなたが来ることはなくて、カフェは潰れてしまった。一緒に飲んだカフェオレの香りを、私は忘れられない。

 

黒のボールペンであなたを描く。
もう二度と会えないあなた。
遠くからちらりと見えたあなたは、私の知らない人とふたり、幸せそうでした。
ノートはこれで最後のページ。

 

ノートを捲って一番最初のページを開く。そこには赤いボールペンで描かれたハートと、私の名前と、あなたの名前。
このノート一冊分の、思い出でした。
何十ページのそのすべて、あなたとの毎日がありました。カラフルな日々でした。
ピンクのボールペンの日もあった。黄色い日もあった。オレンジの日もあった。
どれもこれも、素敵な毎日でした。
ありがとう。

赤いハートに涙が落ちて、二つの名前は滲んでいった。

愛された日々は思い出の彼方【短編】

「愛しているんだ」
あなたがそう、言うから。
私は、「ありがとう、私もよ」と返して。ふたり、幸せになれると思っていた。

ねえ、あなた、私って結局、なんだったのかしら。
長年あなたと連れ添った私は、目尻にシワもできたし、昔のように肌も髪もつややかではなくなったけれど。
私、あなたの少し薄くなった髪の毛も、増えた白髪も、口元のひげも、柔らかくなったおなかも、全部、愛していたのだけれど。
あなたは、どうやら違ったようね。
シワなんて身体中探しても見つからなくて、化粧水をつけなくたって瑞々しい肌で、黄色い鈴のように高く笑う、女の子。そんな子を、あなたは今、愛したのね。
責めるつもりはないの。仕方のないことよ。私に魅力がないの。私はあなたに飽きられた。
飽きられる側はいつだって、惨めで、滑稽よ。
飽きる側のあなたには分からないでしょうね。
そういえば、あなたは何年も昔、いっときとても熱中したものがあったわね。熱中しているあなたの姿を見るのが、私とても好きだった。
いつしか、そんな姿を見なくなって、「どうしたの?」と聞いたら「飽きた」と。
私、あのときから「いつか私も飽きられるのかしら」って、ちょっぴり不安だったのよ。
まさか、それから何年も経って、こんな形で目の当たりにするなんて思わなかったけれど。
「あなた、話があるの」
「なんだ、どうした」
きょとんとした顔で私を見る。その表情なんて、出会った頃と変わらないのに。いつの間にか、あなたの愛は別のところに向かったのね。ああ、もしかしたら、私のこともまだ、別の形で愛してくれているのかもしれないけれど。
「離婚してください」
あなたからのプロポーズのこたえが、こうなるなんてね。とても残念で、ただ、悲しい。
あなたが私以外を求めはじめた時から、この結末に向かって私は歩いていた。
証拠となる写真には、とても、直視したくないものもあったけれど。「今日もまた、愛し合ってきたのね」と思いながら、あなたを玄関で迎え入れる日々がやっと終わるの。
あなたを愛しているから、きっと、こんなにも苦しいのでしょう。私を愛してくれないあなたも、私は、愛しているのよ、バカみたいに。
証拠の写真を突きつけたら、あとはもう早かった。あの人は私の要求をすべて飲み込んで、駄々をこねることもしなかった。
なんだ、本当に私、飽きられていたのね。
「飽きた」って、きっと、私が悪いのでしょう。代わり映えのしない、つまらない女になったのでしょう。それならそうとハッキリ言ってくれたらよかったのに。「飽きた」と言ってくれたら、毎日、あなたの嘘にまみれた白々しい「愛してる」なんて、聞かずに済んだのに。
あなたがほかの人と愛し合う姿を、見ずに済んだのに。
あなたを、バカみたく愛し続けることもなかったのに。
飽きられて、裏切られて、それでもまだ愛してるなんて、とても惨め。とても滑稽。なにが一番苦しいかわかる?あなたと私の思い出すべて、あなたの中から消えてしまうことなのよ。だからせめて、綺麗に終わりたいと思うの。
あなたが幸せになれるように、その若々しい女の子とでも、誰かほかに、あなたを愛する人でもいい。
あなたが、飽きず、ずっと愛し続けられる人と出会えることを願っているわ。
私があなたと出会えたように。

ありふれた理由を重ねて【短編】

世界は愛で満ちている。
世界はキラキラ輝いている。
世界は楽しいことで溢れている。

どれもこれもが正解だ。どれもこれもが正しい。
愛はそこらへんに転がっているし、キラキラと輝くものは多くて眩しいし、楽しいことで溢れかえった世界は今日も明日もその先も続いていく。
どれも本当のことだ。誰もがそれを分かっているはずだ。自分が享受できるかもしれないそれは、確かに世界に存在している。

だから、私は、幸せになれる。
いつか、この世界に満ちている幸せに触れることができる。
そう信じて生きてきた。
信じずには生きられなかった。
だけれど、もう、いい加減に諦めなよと自分自身が呟いている。
私の世界に『幸せ』はなかった。
周りに見えていた幸せは、私の周囲を囲む透明な板で塞がれているようだった。
手を伸ばそうとしても、その頑丈で冷たく恐ろしい透明な板が、私の指先を凍らせた。
こちらに手を差し伸べてくれる、優しい人もたくさんいた。それなのに、私は、その優しく暖かそうな指に触れるより前に、体を小さくして蹲った。
一度も幸せになんてなれなかった、なんて、自分可愛さに言っているだけだ。本当は、私だって、幸せになれる機会はたくさんあったはずなのに。勝手に透明なバリケードを作っては、幸せを拒絶したのは、私だ。幸せが怖くてたまらなかった。一度でも幸せに触れてしまえば、二度と冷たい檻の中に戻りたくなくなってしまうと思った。
そうして、勝手に引き込もって、勝手に傷ついて、勝手に自己嫌悪するような甘ったれな私が、幸せに身を投じることなんて初めからできやしなかったのだ。
一瞬、ほんの、一瞬だけ、一人の人と指先が触れ合えた。温かくて、それは指先だけじゃなく、体全身に伝わっていた。泣いてしまいそうな一瞬の幸福と、笑えるくらいの絶望感だった。
ああきっと、私がこの人のぬくもりから離れたとき、私は壊れるのだろうと思った。そして思った通り、そのあたたかな手を自ら離した。私はワガママで卑しく傲慢な人間で、一瞬の幸せを感じたとき、「もっとたくさん」と強請っていた。
こんな私では、手酷く手を解かれるに違いないと、そう思った。怖かった。自分が壊れることよりも、私の醜悪さがその人に伝わるのがなによりも怖かった。
そうして結局、私はまた勝手に一人で泣いている。
どうすればよかったのだろう。私は、私のこの醜さを、持ちたくて持ったわけではないのに。自分がなによりも一番嫌いなのに。どうしたら、私は、よかったのだろう。
こたえなんてでるはずもなく、ただ、「もしも生まれ変わったら、またあの人のような人と出会いたい」と思いながら、目を閉じた。
次に生まれてくるときも、きっと、世界は愛で満ちている。

缶珈琲と煙草と理由【短編】

幼い頃の記憶。祖父は、「孫との触れ合い」を超えた触れ方で、私に触れた。今でも鮮明に思い出すことができる。およそその「意味」を理解していなかった私は、祖父のするがままそれを受け入れていた。
意味を理解していないながらに、「これは、家族には言ってはいけないことなのだ」と分かっていた。
しばらくして、小学校高学年となったある日、祖父と私に血の繋がりがないことを知った。母は、祖母の連れ子だった。
ああ、そうか。だから祖父は、私にあんなことをしたのだ、と、子供ながらに少しだけ安心した。その頃にはもう、祖父が私にそういう意味で触れてくることはなくなっていた。私がその「意味」を理解するに難しくない年頃になったからだ。
祖父は、女たらしの気は確かにあったけれど、幼い子供に対して欲を掻き立てる質ではなかったように思う。祖父が不倫をする相手は皆、若くもなく歳相応の女性たちであった。
それなのになぜ?と、私は考えた。考えに考えて、いっそのこと家族に打ち明けようかと思ったけれど、結局やめた。私には祖父を家族から引き剥がすようなことはできなかった。ただでさえ、母や私と血の繋がりがないなか、「祖父」としてひとつ屋根の下暮らしているというのに。
中学生のときも、高校生のときも、忘れたことはなかった。映画のように第三者視点から映し出される、幼い日の光景。祖父の手が熱かったことすら覚えている。思い出す度、珈琲と煙草の香りが鼻を掠めた。いつか、祖父が私に触れた理由を教えてくれるかと期待していた。

私が大学生になったとき、祖父は認知症になった。仕事に忙しい父と母からの援助はなく、祖母と二人で祖父の身の回りの世話をした。
もともと気性の荒い人だった。日に日に私を忘れていって、ストーブに向かって私の名前を呼んだりした。
私の名前はまだ覚えているのだと思えて嬉しかった。
私に水をかけてきても、まだそんな力が残っているのだと思えて嬉しかった。‬
そう。嬉しかったのだ。私は、祖父を、祖父としてとても愛していた。
だからこそ、どうしても聞きたかった。あの日々、あの時間は一体なんだったのか。
祖父が毎夜徘徊を繰り返し、生傷を絶えずつくり、毎日怒鳴り声が響くようになってしばらくした頃、祖母が倒れた。
警察や病院に週に一回はお世話になり、近所からの目が痛くなった頃でもあった。
私と祖母の二人では、あまりに背負いきれなかった。そして、遠い土地にある施設に祖父を預けることを決めたのだ。
やがて祖母は回復し、「これでよかった」と私は納得した。
平穏な日々が続いた。祖母はよく笑うようになり、私もまた、夜中に近所中をかけずり回らなくてよくなった生活を心の底から喜んだ。
そのころ、私は幼いころの記憶を忘れていたと思う。認知症となった祖父との関わりあいで、昔の祖父との思い出は上塗りされたようだった。


二年経ち、祖父は亡くなった。知り合いも誰もいない、遠い土地の施設で亡くなった。
私は、「認知症となった祖父」の死をなんなく受け入れた。泣くことすらなかった。やっとのこと、楽になれたのだろうか、とすら考えた。祖母や私がどれだけ身の回りの世話をしたとして、一番苦しかったのは祖父本人に違いないのだ。
私の中で、亡くなったのは「認知症の祖父」だった。昔、私を抱き上げて飼っていた犬と散歩に行った祖父や、私にうどんを作ってくれた祖父や、剃っていない髭をじょりじょりと私の頬に擦り寄せた祖父ではなかった。
ましてや、私に熱っぽく触れた祖父でもなかった。

遺骨を墓に納めた。お線香をあげて、手を合わせても、やはりそこに昔の祖父は見えなかった。
ふと、親族が供えた缶珈琲と煙草が目に入る。
「こればかり飲んで、こればかり吸っていた」と、親族は笑いながら缶珈琲のプルタブを開け、煙草に火をつけた。
ああ、あの香りだ。
あの日、私に触れた日に祖父から移った香り。忘れることのない香り。懐かしい香り。
塗り潰されたと思っていた、祖父の表情、声、手の温度、香り、が、一瞬のうちに頭の中で弾けた。
ぱちぱちと弾けたそれが、私の喉を震わせた。引き攣って、遅れて涙が溢れ出した。私は声をあげて泣いた。
やっと、やっと、私は私の祖父を亡くしたのだと気が付いた。

祖父が私に触れた理由を、ついぞ知ることはできなかった。もう、考えても意味のないことなのだろう。案外、理由なんてないのかもしれない。そうやって折り合いをつけて、私は少し狡猾になる。

喫煙所からあの煙草の香りがするたびに、
誰かがあの缶珈琲を飲むたびに、幼き日を思い出す。


『                       』
記憶の中の祖父の声。
祖父と私の秘密は、誰にも明かさない。