好奇心で生きてる

短編や書きたいことをつらつらと。

深夜4時、「死」について。【短編】

「死」を意識したのはいつか。
はじめて両親に連れられて行った映画館で、主人公にあっけなく殺される何人もの悪役を見たときか。
曾祖母が亡くなり、その遺体の鼻にティッシュペーパーが詰められていたときか。
長年一緒に暮らしてきた、ペットの犬を看取ったときか。
どのときにも、私はたしかに「死」を感じていた。びりびりと痛いほどに感じていた。

「死」とは、なんだろうか。
なんのアニメだったかは忘れたが、とあるアニメに登場する人物が、幽霊を怖がる女の子に対し「幽霊なんていない!人間は死んだらそれで終わりなんだ!」と言っていたのを思い出す。
それは、「幽霊」よりももっと、怖いことではないのか?

「死」とは、「終わり」のことらしい。
なるほど、たしかに何事にもおわりはくる。
どんなに楽しい時間(たとえば、親しい人と話している時)も、苦痛な時間(たとえば、退屈で仕方がない授業)も。同じく始まりがあって終わりがある。
そう考えると、「自分の人生のおわり」が「死」であるということだろうか。
あれ、でも、じゃあどうして私は、「他人の死」を感じることができるのだろうか。「おわった」のは、私とは関係のない他人で、私の人生はまだおわっていないはずなのに。
冷たく目を閉じ、二度と話さず、動かず、食べずにいるのは、私ではない。けれど、私は、それを痛いほどに感じている。「死」を感じている。
亡くなってすぐの曾祖母の手は、まだあたたかかった。優しく、いつも私の頬を撫でていた手を覚えていた。
薄く塗られた口紅の、その唇から発していた声を覚えていた。
けれど、今、私が思い起こす曾祖母の顔や、表情や、声や、仕草や、手のあたたかさが、本当に正しいのかどうか。それはもう二度と分からない。確かめようがない。
「死」は、すべてを連れ去ってしまうのだ。

「誰かの心に残っている限り、その人は生き続ける」なんて言葉も、何度か聞いたことがある。
そうだろうか。
「死」とは、そういうものなのだろうか。
この「死」は、「死は平等ではない」と言っているのだろう。「誰かに想われている時間」が、みな等しく同じわけがないのだ。
「死は平等に訪れる」のに、「『本当の死』までの期間」には差があるらしい。私が死んで、同時に誰かが亡くなって、はい、どちらの「死」が、早く訪れるのでしょうか。なんて。

私たちの染色体は残念なことに、原核生物のような環状構造ではない。おわりのある「線」なのだ。細胞分裂を繰り返すたび、先端からすり減って、いずれ限界点がくる。細胞分裂が止まったとき、それがその細胞の寿命。
「長いろうそくは子供、短いろうそくは大人」という話を昔聞いたことがある。
なるほど、たしかに細胞分裂を繰り返した染色体は短い。
火を灯し、燃え続けたからこそ短くなるろうそくと、生まれ、生き続けたからこそ短くなる細胞。「老い」というのは、なんと長期的な幸福なのであろうか。「死」へ近付くと同時にそれは、細胞がすり減るほどに生きてきた証なのだ。

私が、いつ死んでしまうのかは分からない。蝋を溶かし尽くせるのかすら分からない。ろうそくの火は、風が吹けば消えてしまう。
だけれど、今私は一秒先も生きていると疑わずに生きている。
いずれくる「死」を理解して。「死」とはなんなのか、分からないまま生きている。
きっと最期、思考がめぐるその瞬間にだって、分からないままなのだ。

「私のお葬式には誰が来てくれるかしら。悲しんでくれるかしら。お天気はいいかしら。どんな会場で、どんな…。」
なんて、考えたって自分では絶対に確認できないことを想像してみる。私は今日も生きている。