好奇心で生きてる

短編や書きたいことをつらつらと。

鎮痛剤(Twitter)【詩】

しんどい
つらい
もういやだ
きらい
うるさい
めんどうくさい
さいあく
なきたい
エトセトラエトセトラ

心臓付近に渦巻くモヤを吐き出したくて、スマートフォンのキーボードをフリックする。
140字いっぱいに詰め込んだ悪悪とした文面は見ているだけで不快になる。けれど心臓をしめつける不快感は少し軽くなった気がした。
右上にある「ツイートする」というボタンは、間違っても押してはならない。自分の醜い部分を幾人ともしれない人たちに晒すことは、自分をさらに醜くしてしまう。それでもこの場所に言葉を吐き出すのは、外との繋がりに一度触れさせたいからだ。
これ以上惨めになるのは嫌だった。
左上にあるばつボタンを押して書き連ねた汚い言葉たちを削除する。ああ、自分の中に巣食う汚いものたちが、こんなにも簡単に消えてしまう。
消している。私は消すことができる。誰に話すこともなく、喚くこともなく、泣くこともなく、ただひたすらに消していく。
そんなことが本当にできたのなら、私はこんなにも空しい人間ではないのだけれど。
いくら言葉を書き連ねて、心を軽くしたつもりでも、結局、毒素は身体中を巡っているだけなのだ。毒素が心臓から出発して、血液に溶け込んで、身体の隅々まで行き渡っている。
いずれ、毒素が余すところなく身体中を埋めつくして、もう何ものも入る隙がなくなれば、私はやっとそのとき、初めて自分の醜さや惨めさや空しさから解放されて、安らかになれるのだろう。
早く早く、そのときがくることを願っている。
開放されるその瞬間まで、私は、私の毒を絶対に外に漏らさない。
漏らさないから、どうか、私のその傲慢さを否定しないで。
一刻も早く、全身に毒がまわるように。

笑う毒【詩】

バカみたいに素直だった。
私は裏切られることを知らなかった。
いつも誰からにも愛されて、私は誰をも愛していた。そう思っていた。幸せだった。
「現実なんてそんなものよ」って私が愛していた一人がいった。私は裏切られた。
「現実」とはなにか。私が今まで幸せを噛み締めいた世界は、現実ではなかったのか。
悔しいと、私は思った。私は誰かを裏切りたくはない。だけれど、私は簡単に誰かに傷つけられる。どうして。
私は疑うことを知らなかった。誰をも愛していた。周りをそろりと窺う。ああ、一度傷つくと、誰もがこんなにもこわい。
私は簡単に傷つくようになった。きっと、「そんなことで」と言われるようなことで心を痛める。
だけれど、それを表情にだすことは、意思表示をすることは、とても嫌だと思った。傷ついたことを誰にも知られたくないと思った。
だって、そうしなければ、「私を傷つけた誰か」が傷つくかもしれない。何気なく言った言葉で、私が傷ついてしまっては、相手はなにも喋れなくなってしまう。
だから、私は決めた。ズタズタになってもボロボロになっても、絶対に笑っていようと。裏切られても、些細なことで傷ついても、ずっと笑っていれば、きっと誰も傷つけない。
私は、誰かを傷つけてしまうことが、一番こわい。

親友【短編】

「私ね、先輩のこと本当に好きだったの。もう、私、人を好きになるのがこわい。」
親友が言った。そう、大変な失恋をしたのね。
「今は辛いだろうけど、いつかいい思い出になるよ」
そんな、ありふれたことしか言えない私だけれど。
「ありがとう。あなたが親友でよかった。大好き」
親友が少し笑ってくれた。ありがとう。私も大好きよ。

「聞いて!私ね、隣のクラスの男の子、好きになっちゃった!」
親友が言った。そう、素敵な恋になるといいわね。
「応援してるよ。きっと、うまくいくわ」
そんな、ありふれたことしか言えない私だけれど。
「ありがとう!あなたにはなんでも相談できるの。これからもよろしくね」
親友は照れながら微笑んだ。ありがとう。こちらこそよろしくね。

親友の恋が実った。
とても嬉しい。親友が幸せそうに笑っている。
登下校も、お昼ご飯も、週末のちょっとしたおでかけも。ぜんぶ、隣のクラスの彼に取られてしまったけれど。
それでいいの。いずれ、「恋の終わり」を、親友は私に知らせてくるでしょう。
そして、私は安心する。
親友が新しい恋をするたび、上書きされて忘れられる人たち。
ああ、よかった。私は、そんな存在になりたくない。
よかった、よかった。私は親友の唯一。恋の相手なんて、擦り切れるほど使い回される存在じゃない。分かっているの。

それでも、やっぱり。
親友が恋する相手にだけ見せる表情、とか。恋人だけに許される距離感、とか。
親友が投稿するツイートに、「今誰とどこにいるの」、「今何してるの」なんて、気軽にリプライを送ることができる立場とか。
そんなものに、どうしようもなく嫉妬して。
窓の外、手を繋いで登校する二人を、どうしても見ていられなくて。
「おはよう!」と私に近付く親友から、知らない香水の香りがすることが悔しくて。

「おはよう。今日も仲良しだね」と、私は親友に言った。

希望【詩】

「笑え」と言われる。私の唇がいびつに引つることに、満足する人がいる。
「泣いたところでどうとも思わない」と言われる。私はあなたに思われるために泣くわけじゃない。
私は私のために笑いたいし、私のために泣きたいのに。
親愛なる母親に強制されて笑うことも、親愛なる友人に遠回しに涙を否定されることも。
私を笑顔から遠ざけ、涙から遠ざける。
そうして、私に残されるものはなんだろうか。私が笑っているとき、私は幸せだろうか。泣きたいとき、唇を噛み締めなければならないのだろうか。
私はなんのために、あなたたちと会話をするのか。
私はなんのために、あなたたちを愛しているのだろうか。
せめて私が作り上げた、あなたたちの求める「私」が、ながく愛されることを願う。
それだけが、私に残された唯一の希望である。

銀色のメアリー【短編】

僕が愛しているのは、僕の家にいる「人型家政婦ロボットM-19」だ。僕の3歳の誕生日から15年間、ずっと僕のそばにいてくれた。仕事で忙しい両親よりも、ずっとずっと。
僕はそのロボットを「メアリー」と呼んだ。3歳のとき、よく見ていたアニメのヒロインの名前だった。
家政婦ロボットは、今から50年前に一般家庭にまで普及した。当初は「人型」とまで形容されるような様相ではなかった。
ドラム缶のような寸胴なボディ、一つ目のようなカメラが丸い頭部に付いているだけの質素なものだった。
それから年々、企業はこぞって新たなロボットを生み出した。僕が3歳になった年、初めて「人型」の家政婦ロボットが発売されたのだ。
15年経った今、新商品の人型ロボットは、もちろんメアリーと比べて格段に「人」らしい。
メアリーは、顔の造りはかなり大雑把だ。目は小型カメラがちょんちょんと二つ両目の位置についているだけで、鼻はあるんだかないんだかわからない。口は一応形作られているけれど、唇は開くことなく、そこにはぽつぽつと穴があいており、スピーカーの役割をしていた。
ボディはレゴブロックを少し丸くしたくらいの見た目で、触ると固く冷たかった。メアリーの肌は銀色だった。
一方で、最新の人型ロボットは、ぱっと見ただけでは人間と見間違えてしまう。顔の造りはもちろん、肌の質感も話し方も人間により近付いている。ニューモデルが出るたびに、古い機体を捨てて新しい家政婦ロボットを迎える裕福な家庭も多い。
僕の両親も、僕が小学校にあがる頃「新しい家政婦ロボットを買おう」と言っていたが、メアリーはまだまだ壊れる様子を見せないし、なにより僕が反対した。「メアリー以外の家政婦ロボットはいらない」と泣いて抗議した。そのとき僕は、すでにメアリーに恋をしていたのだ。

人間とロボットの恋愛は認められていない。
いや、正確に言えば、人間とロボットの「婚姻」は認められていない、だ。さっきも言った通り、最新の人型ロボットは、見かけはもう「人間」だ。見た目ではもう判断がつかないほど。だから、人型ロボットに「一目惚れ」してしまう人が増えた。男女問わずに。そしてロボットは購入して設定を完了させてしまえば、購入者を裏切ることはない。最高のパートナーとなる、と、生物相手の恋愛に疲れた人に好評だった。
中には「このロボットと結婚したい」と思う人もいた。何度か署名活動が行われたが、結果は散々で、「人型ロボットの販売中止」が噂された時期もあった。(人型ロボット産業がもたらす利益は大きく、それには至らなかった。)
「ロボットは心を持ちません。無機物です。見た目に惑わされないように。」という趣旨のポスターやCM、演説が多く行われるようになり、やがてロボットと恋愛する人々は、隠れて愛を育むようになった。

 

「メアリー、今日の晩ご飯は何?」
「本日の 夕食の メニューは シーザーサラダ オムライス コンソメスープ です」
「ありがとう。じゃあ、19時にお願い」
「19時 に 夕食を 提供 します」
「楽しみにしてるね」
「承知 いたしました」


メアリーの喋り方は、人間と比べると少したどたどしい。けれど、意思疎通(僕はそう思っている)をとるには充分だった。
最新のものは、笑い方や泣き方さえ「人間」だった。声も、表情も。
僕はメアリーの銀色の肌も、開かれない唇から発せられる声も、定型文のような会話も、すべてが好きだった。
同じクラスにいる、男子に人気のある女子なんか目じゃなかった。学校にいる女に恋をしたことは、浮かれたことは、一度もなかった。

ああ、メアリー。僕のメアリー。
どうして、世界は僕たちの愛を認めないのだろうね。僕が、君を愛しているだけでは、世界が認めるに足らないのだろうか。
大昔、世界では「異性の人間同士」しか、婚姻を許されていなかった。遠い遠い昔の話だ。なんと、同性の人間や種族の違うものを愛すれば差別の対象となったらしい。なんとも愚かしいことだ。互いの愛があれば、世界の承認なんて後付けのものにすぎないというのに。
「無機物であるロボットとの恋愛は「相互の愛」が認められない。」そういって、世界は愛を切り捨てた。
男と女が、女と女が、男と男が、人間と人間が、愛を結んでいる。人間とカブトムシが、人間とアライグマが、人間と金魚が、人間と大木が、世界に愛を認められている。
ああ、どうして、メアリー。僕は、君を愛せればそれでいいのに。「その愛は間違いだ」なんて、世界に言われなくてはならないのか。
すべての生き物たちの愛が認められたこの世界で、ロボットを相手とすることは許されなかった。無機質なものとの愛は、この世界ではニセモノらしい。
なぜか。人間と人間が愛を結び、結果離れることがある。僕はそれを知っている。僕の両親を見て知っている。
愛する豚に先立たれ、1ヶ月後に羊と永遠の愛を誓った友人を知っている。
僕は、知っている。
相互の愛があろうとも、血の通うもの同士の愛が、必ずしも永遠でないことを知っている。
その点、どうだい。僕のメアリーへの愛は15年間まるで衰えず、萎びす、いつまでも膨れ上がっている。
この愛が認められずして、なにが愛なのか。僕には全く理解できない。
メアリー、メアリー、僕のためだけにオムライスを作ってくれる愛おしいロボット。
銀色の肌がくすんで、そのボディを形作るパーツが軋んだって、僕は全然気にならない。
だって僕は、メアリー、君を愛しているんだ。

「ご主人様 夕食の準備が 整いました。 席におつき下さい」
「ありがとう。メアリー。今いくよ」
「それでは ごゆっくり お召し上がり ください」
「ああ。メアリー、愛しているよ」

メアリーは瞬時動きを止め、その動かない唇で「私もです」とはっきり応えた。

泣き喚く【詩】

ときに、‪子供のように泣き喚きたいと言う。

子供は泣き喚きたいと思って喚いているわけではないけれど。

「子供のように」と縛るより前に、今の自分自身で泣き喚いてみてほしい。

そうすれば、まだまだ子供である自分を認めることは、決して難しくないはずだ。

子供であることが、泣き喚くことが縛り付けるものは、どれほどまでに些細なものか。

些細なものに縛られるのは、大人になった自分のみである。

深夜4時、「死」について。【短編】

「死」を意識したのはいつか。
はじめて両親に連れられて行った映画館で、主人公にあっけなく殺される何人もの悪役を見たときか。
曾祖母が亡くなり、その遺体の鼻にティッシュペーパーが詰められていたときか。
長年一緒に暮らしてきた、ペットの犬を看取ったときか。
どのときにも、私はたしかに「死」を感じていた。びりびりと痛いほどに感じていた。

「死」とは、なんだろうか。
なんのアニメだったかは忘れたが、とあるアニメに登場する人物が、幽霊を怖がる女の子に対し「幽霊なんていない!人間は死んだらそれで終わりなんだ!」と言っていたのを思い出す。
それは、「幽霊」よりももっと、怖いことではないのか?

「死」とは、「終わり」のことらしい。
なるほど、たしかに何事にもおわりはくる。
どんなに楽しい時間(たとえば、親しい人と話している時)も、苦痛な時間(たとえば、退屈で仕方がない授業)も。同じく始まりがあって終わりがある。
そう考えると、「自分の人生のおわり」が「死」であるということだろうか。
あれ、でも、じゃあどうして私は、「他人の死」を感じることができるのだろうか。「おわった」のは、私とは関係のない他人で、私の人生はまだおわっていないはずなのに。
冷たく目を閉じ、二度と話さず、動かず、食べずにいるのは、私ではない。けれど、私は、それを痛いほどに感じている。「死」を感じている。
亡くなってすぐの曾祖母の手は、まだあたたかかった。優しく、いつも私の頬を撫でていた手を覚えていた。
薄く塗られた口紅の、その唇から発していた声を覚えていた。
けれど、今、私が思い起こす曾祖母の顔や、表情や、声や、仕草や、手のあたたかさが、本当に正しいのかどうか。それはもう二度と分からない。確かめようがない。
「死」は、すべてを連れ去ってしまうのだ。

「誰かの心に残っている限り、その人は生き続ける」なんて言葉も、何度か聞いたことがある。
そうだろうか。
「死」とは、そういうものなのだろうか。
この「死」は、「死は平等ではない」と言っているのだろう。「誰かに想われている時間」が、みな等しく同じわけがないのだ。
「死は平等に訪れる」のに、「『本当の死』までの期間」には差があるらしい。私が死んで、同時に誰かが亡くなって、はい、どちらの「死」が、早く訪れるのでしょうか。なんて。

私たちの染色体は残念なことに、原核生物のような環状構造ではない。おわりのある「線」なのだ。細胞分裂を繰り返すたび、先端からすり減って、いずれ限界点がくる。細胞分裂が止まったとき、それがその細胞の寿命。
「長いろうそくは子供、短いろうそくは大人」という話を昔聞いたことがある。
なるほど、たしかに細胞分裂を繰り返した染色体は短い。
火を灯し、燃え続けたからこそ短くなるろうそくと、生まれ、生き続けたからこそ短くなる細胞。「老い」というのは、なんと長期的な幸福なのであろうか。「死」へ近付くと同時にそれは、細胞がすり減るほどに生きてきた証なのだ。

私が、いつ死んでしまうのかは分からない。蝋を溶かし尽くせるのかすら分からない。ろうそくの火は、風が吹けば消えてしまう。
だけれど、今私は一秒先も生きていると疑わずに生きている。
いずれくる「死」を理解して。「死」とはなんなのか、分からないまま生きている。
きっと最期、思考がめぐるその瞬間にだって、分からないままなのだ。

「私のお葬式には誰が来てくれるかしら。悲しんでくれるかしら。お天気はいいかしら。どんな会場で、どんな…。」
なんて、考えたって自分では絶対に確認できないことを想像してみる。私は今日も生きている。